大井, 上野:景気変動が実質賃金に与える影響: インフレ率水準との関係
本稿では、景気変動が実質賃金に与える影響について、特にインフレ率水準との関係に着目して、日本と米国を対象に検証した。 検証においては、1986 年 から 2014 年までのマクロ時系列データを用い、インフレ率水準がマクロ経済変数間の連関に影響を与える可能性を考慮できる円滑遷移多変量自己回帰分析を採用した。 STVARは、わが国のようにマクロ経済変数間の連関が経済状況に応 じて変化する場合において有効な手法 実証分析から、日米ともに、
(1)実質賃金は景気変動に対し正循環的であることがわかった
(2)実質賃金の景気変動への反応が景気改善時と悪化時で異なることについては、頑健な結果が得られなかった
(3)わが国では、景気変動をもたらすショックに対する実質賃金の反応は、インフレ率が高くなるほど大きくなる一方、米国では、インフレ率の高低と実質賃金の反応に明確な関係がみられないといった異なる結果が得られた。 図でインフレ率水準(実線・破線)が変化した時のインパルス応答が、日本においてはインフレ率水準が大きいほど大きくなるが、米国においてはインフレ率3%程度において最大となる。(景気改善・景気悪化)
わが国では、CPI(除く生鮮食品)を用いたケースでは、ごく短期を除けば、景気改善時のほうが、実質賃金の反 応度合が大きいとの結果が得られた(図 7~10)。一方、CPI(除く生鮮食品・エネ ルギー)を用いたケースでは、非対称性は小さい(図 11~14)。
非対称性の相違については、CPI(除く生鮮食品)の場合と、CPI(除く生鮮食品・エネルギー)の場合における遷移関数の形状の違いが要因の 1 つと考えられる。
遷移関数が滑らかな CPI(除く生鮮食品)の場合、景気変動によってインフレ率が変化する ことに伴って、経済動学も徐々に変化するため、ショックの方向性によってインパ ルス応答が異なってくる。一方、CPI(除く生鮮食品・エネルギー)の場合、多くの範囲(閾値近傍以外)で、遷移関数があまり変化しないため、ショックの方向性自体はインパルス応答に大きな影響を及ぼさない。
このため、非対称性の相違は、前述したように、川本・中浜・法眼 2015 が指摘する CPI(除く生鮮食品)と CPI(除く生鮮食品・エネルギー)における過去の実績への依存度合の違いから生じることになると考えられる。
日米で こうした差異が見出される要因としては、物価観すなわち中長期的な予想インフレ率が形成されるメカニズムの違いなどが影響していると推測される。
西野ほか 2016 は、インフレ予想の決定が日米で大きく異なっていることをエコノミストへのサーベイ・データを用いて示している。具体的には、わが国では、インフレ予想がインフレ率の過去の実績の影響を大きく受ける一方、米国では、過去の実績の影響は大きくないことを報告している
日本銀行 2016の BOX2 では、わが国では、名目賃金のベースアップ幅が足もとのインフレ率に影響を受ける一方、米国やドイツでは、長期予想インフレ率の影響を受けるとの結果を得ている。こうした先行研究から、わが国では、米国などと異なり、予想インフレ 率が足もとのインフレ率の影響を受ける度合が大きく、また、名目賃金の決定においても、足もとのインフレ率が果たす役割が大きいことが確認できる。
こうした研究成果は、本稿における分析結果とも整合的である。すなわち、米国では、短期的なインフレ率の変動は物価や名目賃金の設定行動に影響を与え難いため、足もとのインフレ率の高低によって、実質賃金の景気変動への反応は変化しない。一方、わが国では、足もとのインフレ率が予想インフレ率への影響を通じてさ まざまな市場における価格設定に影響を及ぼし、予想インフレ率が上昇した場合には、名目賃金が物価に比べて、より伸縮的になるため、実質賃金の景気変動への反応度合がインフレ率の水準に依存することになる
近年のマクロ経済学では,時間を通じた経済主体の意思決定を分析する「動学的分析」が主流になっている。
動学的分析は,過去の出来事や今後予想される出来事が各期の経済状態に時間を通じてどのように影響していくかを分析するものであり,特に,マクロ経済学の動学分析では,経済主体の期待の果たす役割が経済政策の効果を考察する上で大きな役割を果たしている。そこで,本稿では,期待の役割を中心にマクロ経済動学の研究成果をオーバービューする。